何時のころからか、通常の仕事をこなすと同時に、ほかの仕事もしないと時間の無駄と思うようになっていた。一つの例がサラリーマン時代の行動だ。毎月の給料を頂いていることから、目の前の仕事が最優先だというのは当然わかっているが、それだけでは何か物足りなさを感じていた。その対象が「執筆」だった。仕事の成果をまとめるのも一つの執筆かもしれないが、内容は明らかに違っていた。当時「国際規格ISO」については、ほとんど世に知られていなかったので、これを世の中に知ってもらう手段として、執筆を通じた著書出版が一番効果的ではないかと思いついた。もちろんサラリーマンなので、勤務時間の執筆はあってはならない。当時在籍していた企業は、入社当時から完全週休2日制をうたい文句にしていたこともあり、もっぱら土日を執筆にあてた。執筆はもともと性に合っていることもあって、まったく苦にならないどころか楽しみでもあった。その後この著書が「ISOのベストセラー本」につながるわけだが、私自身当時のISO事務局で経験したことをまとめただけであり、まさかその著書がベストセラーになるとは、単なる偶然に過ぎないと思っている。
ところで人の一生は、何かのきっかけで成功したり逆だったりすることはよくあることだ。ここで重要なことは、たまたま成功したことに安住せず、それにふさわしく、かつそれを上回る実力をつけることこそ、本物の実力者ではないだろうか。
自民党の総裁選をめぐり、またまた派閥争の真っただ中だ。我々国民からしたら、日本のトップを私利私欲の塊の一つの派閥で決められることになり、これが世界の先進国である日本の現実であり、本当に情けなくなる。こればかりではない。各大臣を決める場合でも、毎回各派閥のバランスを考慮しての決定が常態化しているではないか。その結果、これでも大臣かと危惧される著しい能力の低い人が選ばれたりしている。一方若手議員が結集して、派閥を超え本当に国民のための政治を行う人物に1票を投じようとする動きがあるが、どこまで鵜呑みにしていいか信用していない。というのはこれら若手議員も、やがてはどこかの派閥に属することになり、結局は先輩と同じ道を辿りかねないからである。
国民からすると、一国のリーダーを派閥の力で決められたらたまらない。なぜ国民投票にしないのか私はずっと疑問に思ってきた。地方の自民党員の票もあるとの反論もあるかもしれないが、中央の派閥とつながっている可能性が大いにあり得るのだ。各候補者は国民の前で堂々と政策論争を行い、その内容を国民の冷静な目で判断し、トップにふさわしい候補者に投票する。その当たり前のことが、まさに民主国家にふさわしいやり方ではないか。また当然のことながら、口先だけでなく、定期的に実行力も評価する仕組みも必要だろう。
大阪のクリニックの無差別殺人で多くの善良な尊い命が失われた。中でも不幸にも亡くられた院長は、人々の精神を病んだ患者に寄り添い、生きる希望を与え続けた立派な医師だったようだ。埼玉医大卒とのことで、たまたま自宅近くにあることから、私もこの医大病院をよく利用している。犯人の動機はまだよくわからないが、家庭がうまく行かずに本人が自暴自棄になり、どうせ死ぬなら他人を巻き込みその腹いせを果たそうとしたことが推測される。
先の京アニ事件によく似た行動であるが、どうせ死ぬなら他人を巻き込んで死のうとの考えがあるように思えてならない。大量の無差別殺人と何ら変わらないわけだが、このような犯罪の背景には、「どうせ死ぬなら他人を巻き添えに!」という心理が見え隠れする。だとすれば恐ろしい話だが、身近にこのような人物はいくらでもいるともいえる。ところで本事件がどのような理由で起こされたのかはまだ明らかにされていないが、このような凶悪犯罪の背景には、必ず「人間同士の恨み」が関係していることが予測される。であれば、他人との付き合いで、人から恨みを買うような行動は、なるべく慎むことがこのような犯罪を防ぐ第一歩ではないだろうか。
現状の腐った政治に、国民は大いに怒っているのが現実ではないだろうか。
毎日のさまざまな政治や行政の疑問点についての説明に、納得した国民は皆無ではないかと思われる。例えば経済担当の山際大臣の統一教会に関する答弁は、まさに口から出まかせの嘘八百だと国民は見抜いているはずだ。この明らかに国民への不誠実な対応に対して、任命責任を問われるはずの岸田首相は、今なお何の説明も果たしていない。良識ある国民はあきれてものがいえないのである。
さて弊機関の本部がある英国では、国会議員はもともとボランティアに近い活動をしており、年収も800万ぐらいだ。国民とかけ慣れた年収と、その他様々な特典がある我が国の議員の待遇とは大違いなのである。もともと国会議員は国民の代弁者であることを思えば、国民の生活とかけ離れた特典などまったく不要なはずである。
例えば国会議員になれたとしても、平凡な国民の年収並みかそれ以下であれば、自身も含め国民の待遇をよくしようと思う気持ちがわいてくるものだ。私案として、「すべての国会議員はボランティア希望の国民から選抜」したらどうだろうか。
純粋のボランティアを希望する人なら、きっと国民の生活を豊かにする気持ちは強いはずであり、現状のさまざまな特典など見向きもしない人が大半だと思う。長引くコロナ禍で明日の生活もままならない国民が多数いるにもかかわらず、既得権益を死守し私利私欲に走る国会議員など全く不要なのである。
何時の頃からか、監視カメラ(防犯カメラ)が注目され、今やあらゆるところに設置されている。普段何気なく歩いている街中でも、ふと周囲を見回してみると思いがけないところに設置されているのに気づく。初期のものは図体が大きくかなり目立ったものだが、最近のものは小型化されしかも精度も向上し、後で確認する場合もはっきりと証拠が確認できるということで、いろいろなところで重宝がられている。
さてこの監視カメラの一番の貢献は、事件の犯人をしっかりと特定できるということではないだろうか。以前は何かの事件が起こった場合、当時の状況を推察するために多数の警察官を動員して「聞き込み」からスタートするのが普通だったが、今や監視カメラの映像を再生するだけで、当時の状況が概ね把握できてしまう。街中に設置されている監視カメラだけではない。今や車にもあおり運転防止用の「ドライブレコーダー」なるものが設置されており、これには車の前後や周囲の状況が常時撮影されているので、りっぱな監視カメラである。
一方監視カメラというと、どうしても個人情報との兼ね合いが生じるが、何らかの事件や出来事を解決するためには、それらの解決の方が優先されるのは仕方がないことだと思う。
このように、今やものごとの客観的な証拠として「動画」や「写真」が活用されているが、勝手な撮影や利用は犯罪と隣合わせだ。テレビの撮影でも、事前に相手に許可を得るシーンがあるが、一般人も後々のトラブルを防ぐ意味でも見習うべきだろう。
さまざまな世の中の出来事が、週刊誌「週刊文春」で次々と明らかにされてきたのは紛れもない事実だ。国や大手企業の不祥事、芸能人の不可解な行動や不倫など、一般の人はこの週刊誌の記事により、初めて事実を知ったという人が大半ではないのか。もともとこの週刊誌は、日本を代表する雑誌でかつ格調の高い「文芸春秋」の分身的な位置づけである。
実は私も今から25年ほど前の日本にISOが導入されたころ、文芸春秋社からインタビューを受け、その記事が掲載された経験があり、私の経歴の大きなブランドとなっている。
これらの記事はジャーナリストと呼ばれているフリーで活動している人の執筆が多く、かれらは世の中のさまざまなできごとを独自に取材した証拠をもとにその真実を明らかにする使命を負っている。彼らの記事は、何らかの証拠に基づいてのそれが大半であり、それだけに説得力をもっている。今話題の「統一教会」の記事にしても、我々がまったく知らない情報が次々と明らかにされる現実に対して、その取材力・表現力のレベルの高さに尊敬の念を抱くほどだ。一方中には取材が不十分で、いまいち証拠に疑問符がついたり、またその表現が極論だったりして訴訟沙汰になることも少なくないが、国民が知らない世界がこの記事で明らかにされること自体、大いに評価されてもよいのではないか。
さて、ものごとの真実を明らかにする点では、朝日、毎日、読売、産経、日経新聞などもその使命を負っているが、何の制約もなくずばり単刀直入に真実を記事にする週刊文春には、とても及ばないだろう。
首相はじめ多くの閣僚が、何かにつけ人前で発表するときに「原稿の棒読み」が常態化している。特にひどかったのが菅総理だ。自身の発言に自信がないのか、言葉の正確性を欠き後々問題視されることを懸念してなのか、聞かされる側にとっては、原稿読みというのは事務的な手続きとしか思えず、真意はいったいどこにあるのかさっぱり伝わってこない。
一方諸外国の要人の国民への伝達方法は、原稿があったとしても、それらに目もくれず自身の言葉で、時には大きなゼスチャーを交えながら、視聴者の心に残る説明をするトップリーダーが数多く存在することは周知の事実である。
国民側としては、説明に多少の言い間違いがあったとしても、自身の思いを一生懸命相手に伝えたい情熱があれば、間違いなく共感は得られるものだ。
一方選挙前の該当演説では、原稿なしに自身の思いを熱く語る候補者が多数いるにも関わらず、いざ何らかの答弁になると原稿読みに切り替える議員が大半なのは、当該テーマを熟知しておらず、かつ失言を警戒するあまり消極的な原稿読みに走ってしまうというのが本音だと思う。
いずれにしても自身の思いを相手に伝える時には、原稿など不要だ。頭の中で事前に当該テーマをしっかり整理し、自身の考えを相手に熱くわかりやすく伝えるパフォーマンスができるかが、これからのリーダーふさわしい条件になるだろう。
安倍元首相が暴徒により殺されてから、「統一教会と国会議員の関わり方」が大きくクローズアップされてきた。国会議員にとっては、選挙時には自身の票田を少しでも増やそうとやっきになるいつもの光景であるが、このようなときに少しでも自身の票田につながるような動きは、まさに願ってもないチャンスだと捉える人がほとんどだと思われる。
ということから、旧統一教会の行動は国会議員にとって避けて通るどころか、積極的に援助をお願いしたい団体そのものではないのか。
今、旧統一教会と議員との関係性がどの程度あったのかの説明を求められているが、いずれの議員の説明も、ごまかしているのは明らかで、有能な国民は「明らかに嘘の答弁」だと見抜いている。実はこれらの答弁は、まさに刑法第169条で謳われている偽証罪に相当しよう。本条では、「宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、3か月以上10年以下の懲役に処する」と定められている。とすれば、この度の旧統一教会との関連を問われている国会議員の中には、「記憶にない」「秘書がやった」「旧統一教会を知らなかった」など、明らかに真実とは程遠い説明は、まさにここでの「偽証罪」に相当するはずである。
にもかかわらず、本件はそのうちうやむやにされ、何のお咎めもなくいつか忘れ去られてしまう現実を今までどれだけ見せられてきただろうか?
主権者である国民が馬鹿をみる現状の国会議員の行動は、まさに偽証罪として十分成立するはずである。
新型コロナで世の中が変わってしまった。今まで当たり前だったさまざまなことが音を立てて崩れつつあるのだ。物書き、芸術家、あるいは個人で仕事を請け負う人などを除き、たいていのサラリーマンは、いつものように出社し、仕事を終えれば帰宅するというルーチンワーク。会社そのものがなくなったわけではないのに、出社ができずやむを得ず自宅で仕事をこなす日々。いったいこのような世の中を誰が想像したのだろうか?
当初リモートでの仕事に慣れないサラリーマンも、今後どうなるかを危惧した人が大半だったが、徐々に慣れてくるとそんなに違和感なく仕事をこなせることが徐々に明らかになってきた。ということからすると、今まで普通に出社し仕事をこなすやり方が何だったかの疑問がわいてくる。コロナがなければ、家で仕事をこなすことなど、よほどの事情がない限り考えてもみない人が大半ではないのか。ということで、コロナの流行が収まったとしても以前のような日常に戻ることはあり得ないように思う。
逆にいえば、今まで出社して仕事をこなす日常にどのような効果があったかを検証することが必要ではないか。確かにリモートだと限定された画面しか見えず、一瞬にしてその場の雰囲気を感じ取ることはできない。その他通信状況がよくない場所では、お互いの情報のやりとりに時間がかかることも事実だろう。しかしながら、リモート業務そのものは、業種にもよるが、これからの時代、広く一般化した業務形態になるに違いない。
数年前に中欧を旅した時のこと。オーストリアの首都ウイーンにも立派な路面電車が走っている。市民の足として使われていることから、乗客も少なくない。一度は乗ってみたいと思い、車窓から異国情緒たっぷりの風景を楽しんでいたところ、途中から一人の老人が乗り込んできた。この電車にも「シルバーシート」が設けられ、日本と同じように色分けされ一目でわかるようになっていた。シルバーシートに一人の若者が座っているのを見たこの老人は、「ここは老人席で若者の席ではない」と公然と注意すると、若者は即座に席を立ち譲った。この光景を真のあたりに見た私は、当たり前のことが当たり前に行われるこの国の道徳心の高さに感動したものだ。
一方日本では老人が遠慮し、もし注意でもしたら何をされるかわからない恐怖心もあって、シルバーシートが若者に占有されているのを目にする。また、小学校低学年の子供を大手を振って座らせる両親もいるが、これも問題だ。
実はシルバシートに座れるのは、「老人」「身体不自由者」「妊婦」など限られた人だと注意書きで示されいて、健康な若者にはもともと座れる権利などないのである。
若者もやがては老人になり、その時はじめて老人の気持ちがわかるようになるかもしれないが、それでは遅いのである。